今日は長文だぞー。
最近考えてますのが、小難しく言いますと
「利他行動こそが最高の利己行動である」
てな考え方でして、簡単にいえば
「ひとのために行動すると、自分のためになる」
……いかんなぁ、どうしても宗教新聞みたいに
なってしまいますね(笑)
いや、なにも積極的に公園を掃除しろとか
そういうことではなくて、
AとBの選択肢があった時に、
多くの場合私達は
「自分の好みで」
たとえばAを選ぶわけですが、
実はよくよく考えてみれば、
ほとんどの場合どっちでもいい。
その時もし相手がいて、Bがいいというのなら、
Bにした方が、
相手喜ぶし、
近い人が喜べば自分も嬉しいし、
それでいいんじゃないかな?
というぐらいの気持ちの持ち方です。
「……それホンマに俺はどうしてもAなんか」
と自問自答してみますと、
ケッコーこれ、どっちでもいいこと多いですよ(笑)
むしろ人間そこでAにすることで
「決定する喜び」とか、
逆にそれを否定されると
「ないがしろにされてる怒り」とか、
つまり純粋に問題そのものに対するものではないことで、
喜んだり悲しんだりしてるものです。
これって……考えようによっては、邪魔ですよね。
「まぁそりゃそんな小さい話はいいけどさ、
問題が大きくなってくると……」
でも極端に言いますと、一番大きな問題って、
「Aかゼロ(撤退・諦めや死)か」であって、
「AかBか」では無いことが多くないですか。
むしろBを選択できる程度の問題であるならば、
Bを選べばいい。
「譲る」とか「相手に合わせる」とか、
そういうことではなくて、
ノーカウントにするというか、
その問題を問題としない立場に立つというか、
ちょっと表現難しいのですが。
「右の頬をぶたれたら左の頬を出せ」
というのは、
「もっとぶって」
という愛欲の表現ではなく、
「私はそれは問題ではないですよ」
という意思表示かもしれません。
ぶつという行為は、
「相手を攻撃する」行為として、
意味があるわけで、
「それは僕にとっては攻撃ではないです」
と表示されたら、
ぶつ意味が無くなるわけですね。
そうすると、ぶたれなくなるかもしれない。結果的に。
ガードしたり、殴り返したりするよりも。
そういう感じ。
そう考えると、
すこしは「あーなるほど」と思っていただけませんでしょうか。
話はえらい飛躍するのですが、
この感覚を体得することを、
「悟り」と呼ぶのかもしれません。
ただそれだけの、かなり技術的物理的なことではないかな?
でもこれ行動表現としては、
「自分の欲を捨て、相手に優しくする」
になりますよね。結果的に。結果的にですけど。
ほら聖人。
そうなのよ、人は誰でもブッダになれる(笑)
いやまあ、それはちょっと強引ですが、
運命というのは皮肉なものでして、
利己行動をどんなにどんなに頑張っても
なんの結果も得られないことも多ければ、
ふとした小さな利他行動が
ものすごい自分にとって利益になることも、
たまにですがあります。
生きていく上で、両方の経験を多々積み重ねることで、
「まぁどっちやってもいっしょやったら、
人が確実に喜ぶ方をなるべくやっていこか」
という気持ちになったりするかもしれません。
それがホトケゴコロ神の道ってやつかなぁ、
と、ふと思ったわけです。
「利己行動を捨てる」
と考えると、
そんなもの凡人には絶対不可能ですが、
「利他行動こそが(結構多くの場合)
最高の利己行動であると認識すること」
ぐらいならまあ、なんとかなりそうではないですか。
全ての場合で24時間そうでなくても、
たまにそんな感じでやってみるとか、
身近なところはそれで、とか。
「いい人になること」
は不可能に近いですが、
「優しくできる時に優しくすること」
は、それほどは難しくない。
もし「悟り」の本質がこれであるとするならば、
ハッキリ申しまして山奥でザゼンするなどというのは
あまり良くない修行方法でして、
それよりコンビニでバイトした方がいい。
酔っぱらいに難癖つけられて殴られたりとか、
バイト仲間の女の子が女の子であるというだけで
店長が鼻の下伸ばして時給が高いとか、
そういう理不尽に次々に直面することで、
「ああいや待てこれはこう考えると
僕にとって幸せなのかも?」
と知らず知らず鍛えられ、ついには
ホトケサマホトケサマと呼ばれて
主任として深夜番を任されるかもしれない。
道元さんが大悟したのが、
宋へ行った船で入管手続きに手間取って
船に留め置かれてた時に、
地元の老僧がギョーザに入れる干し椎茸買い付けに来て、
「あなたほどのベテランがこんな小間使いしなくとも」
「なにをいうお若いの、これが修行じゃよ」
「ガーン」
これやと思います。
食事番をしてみなの喜ぶ顔を見る。
これが幸せであり、それを胸に刻む。
いつでも、誰にでも、その気持ちで、向かい合う。
簡単なようですが、
たぶんいくつになっても、メンテナンスを忘れると、
すぐに錆びる心持ちのような気もします。
髪がヒゲが爪が伸び垢がたまるように、
人間の心も適切にシェイプしないと、
どんどん崩れていきますからね。
で。
この気持ちを最初に得るのは、
自転車に乗れた瞬間と同じように、
「ある時」であって、
それはお釈迦様の話のように劇的なものばかりではなく、
トイレ掃除の棒を握った瞬間とか、
あっ、という程度のもののように思います。
事実、人生とかそういう話にすると話が大きいですが、
よくやりこんだゲームを鼻をほじりながらクリアできる、
とか、それも「悟り」です。
このスーパーはこのぐらいで特売をやると睨みをつけて、
それが当たるとか。
そんな小さな「悟り」は誰もが、
しかもたくさん開いている。
でかい「悟り」も、本質的には同じことだと思います。
いや、同じでないという証拠がない。
お釈迦様やキリストでなければ、
あるいはその道50年の人間国宝でなければ
「悟り」すなわち全体観が得られないわけではなく、
それは誰にでも得られます。
(彼らはその対象が大きく全体的である)
この「悟り」と、
未知なるモノをコツコツと
仮説実践考察で削っていく「科学」と、
おたがいに交換可能でしかも十分並立する。
……というのが僕の持論です。
CO2で地球が大変だ、
だったらCO2を出さない技術あるいは
減らしてしまう技術を
科学の力でばんばん開発すればいいだけの話で、
何一つ諦めることはない。
悟りとは逃避でも諦めでもなく、
メタな視点や時間軸の視点から
大きく現在を眺め直して、問題を捉え直す、
そういう前向きな活動です。きっと。
なんかえらい話がでっかくなってしまいましたが。
言いたいのは、その、
悟りすなわち隣人を愛せよ、というのは
そんなにスゴイ大変なこと、
カンタンにはできないこと、
ではなくて、
冒頭申しましたような、
「どっちでもいい時は相手のいいように」
という程度でもそれはもう十分、
ものごとをいい方向へ転がしている。
怒らない人間になることは不可能ですが、
よほどのこと以外は怒らなくていいように
考え直す人間になることは、
やってみれば意外とできることです。
で、これは実はかなりテクニカルなことであって、
性格とか、心とか、環境とか、
それはあんまり関係ない。
そのことについて、
多数のトライと、
その結果とプロセスの冷静な評価を繰り返していれば、
眼前の状態に右往左往しない、
引いた目を持つことができるようになる。
特になんかチャクラを開く訓練とかも要らなくて(笑)
自分が、
いちばんたいせつだと思ってるものごとに、
できるだけ自分を浸していれば、
いつか手に入る目、感じ方、
その程度のものではないかと。
もちろん、今これをお読みのあなたにも、
すでになにかの分野で、
小さなそれを持っている、はず。
「オレは『スマブラ』のアイスクライマー使わせたら
ちょっとスゴイで」
というのも、「それ」です。
これと、お馴染みの科学的手法、
計画を立て要素に分解し理論を考え
トライ&エラーで駄目出しをして
理論をさらに強化し……
というのを時と場合に応じて併用しつつ、
日常に起きるさまざまなことに
うま〜く対応していくのがいいのかな、と思います。
まあ、つまり、
誰もが知らず知らずに、
当たり前にやってることですけど。
だから、
「これからは科学的思考じゃダメだ」
というのは、違うと思います。
系統立てた訓練なしに、悟りすなわち全体観が得られる、
そんな甘いことはない。
釈迦やキリストだって空海だってザビエルだって
ガッツリ物理訓練を積んだわけですから、
それは必要なのです。
しかしもちろん、細分化していった要素を
キリキリ追い求めるだけでは限界が来るのは、
いろんな分野で起きてることです。
もう例を挙げる必要もないと思いますけど。
つまり、
WiiやDSがあるから、PS3やXBOX360の良さも
理解されやすいのであって、
逆もまたしかり。
両方必要なのです。
で、こうして「両方」といった時に、
「そんなん絶対ムリだ!」
という反応が即座に返ってくるのは、
おそらく、
1.科学と悟りは対立概念である
2.悟りなんて常人には不可能
という思いこみがあるのだと思います。
1.は全然そうじゃない、
2.も全然、そうじゃない。
だったら、両方並立させることは十分できるはずです。
人によって、得意不得意や比率は違うでしょうけども。
……と、こんなことを、
僕は14年ぐらい考え続けてきました。
当時はイケイケの80年代とバブルが終わって、
「Aじゃダメだ」
というのはハッキリしたのですが、
でも「じゃなんだ?」というのがわかっておらず、
古くからあるBはどう考えても、
Aに駆逐されただけあって常用は難しそうだ。
じゃあ、Cっていうのがあるのか、ないのか……
いや、実はBはなんとかなる程度のもので、
Aと組み合わせてA+Bでいけば、
まああと200年や300年はなんとかなるんでない?
という、ごく平凡な結論です。
しかし平凡であるが故に、
たぶん有用であろうと思います。
司馬遼太郎師匠の生原稿を記念館で拝読しますと、
赤だらけなんです。加筆修正。
緑や黄色も使って、一枚の絵のようです。
どうなってるのかコンビの編集者でないと理解できないぐらい。
文体からも想像するに、
またあれだけの経験と実績があれば、
スラスラと流れるように筆が運ばれてるのかと思いきや、
延々と、対象と文章ととっ組みあいを続けておられたわけです。
最後まで。
人間である以上、
閃きと悶え、両方が必要であって、
どちらかだけでなんとかなるなどという、
甘いものではない。
でもだから楽しくもあり、
困ったら、その時得意な方か楽な方に力を入れるという手も使える。
なんでこんなあたりまえのことを
長年考え続けてきたのか、
今となっては自分でも皆目わからないんですが(笑)
まあ、そういうことです。
二つは一つの裏表、
とかそんなややこしいこといわんでも、
二つのまま使えばええやん、と。
死に思い切り泣き、
生を思い切り笑う。
それでええやないですか。
死のない生に喜びなどなく、
生の喜びがなければ死などなにも悲しくないものです。
両方あるから、いいんですよ。
人は誰でも、
「科学するブッダ」なのです。